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1日目
ゲバラが埋められていた場所へ
2016年4月13日 世界一周700日目の続き
明日タクシーをチャーターしてチェ・ゲバラ がとらわれた森に行くことにして、今日は近場にあるゲバラとその仲間が約30年間埋められていたというお墓や、遺体が公開された洗濯台に行った。ツアーはタクシー込みで70ボリ。
ここには遺体を掘った後の穴と、壁一面にゲバラの写真が飾られていた。
彼が処刑されたこの土地が聖地となることを恐れた政府が、嘘を流してしばらく彼がどこで死んだかを隠していたらしい。
ところが、当事者であったボリビア軍の司令官は日々悪夢にうなされ続け、28年経ってからチェ・ゲバラの亡骸の場所を打ち明けることとなったそうだ。
1997年6月にこの地でゲバラの遺体は発掘され、ボリビアからキューバに運ばれた。
静かな建物の中に入ると、中心部は一段深く穴が掘られ、砂利ととも石碑が置かれていた。
左下が「チェ」と書かれている。ここが30年間彼が埋められていた場所。
没時ゲバラの死を確認するために腕が切り落とされ、CIAに送られた。そのため遺骨発掘時にすぐ彼のものと分かったそうだ。
ゲバラの生涯をかいま見る
壁にはびっしりと写真が飾られており、ゲバラの生涯を見ることが出来た。
ゲバラの若かりし頃。(一番左)
裕福な家庭に育ち、故郷のアルゼンチンで医学を学ぶ。
うろ覚えだが、ゲバラはアマゾン側を自作のイカダで川下りした。きっと、その時の写真。
モーターサイクルダイアリーと同じ道をバイクで旅するのも面白そうだ。
ゲバラは日本へも来たことがあるそう。キューバ革命からたった半年、原爆から14年経過した1959年に広島を訪れた。
原爆資料館を見学した後、彼が放った言葉が「きみたち日本人は腹が立たないのか」だったそうだ。
まさかの日系戦士
最期まで一緒に戦った同志達。
戦士の中には日系人もいたようだ。「フレディー・マイムラ・フルタード」ミドルネームがマイムラとなっている。
父親が鹿児島出身で、彼はボリビア女性との間に生まれのようだ。
まだ、ここにお墓があるものもいる。
4つの墓地から12人の戦士の遺体が発掘されたと書いている。
がらんとした墓地内は静寂そのもの。
唯一の女戦士ターニャのお墓
マルタ病院
実はゲバラはここバジェグランデで死んだのではなく、明日訪れるイゲラ村で射殺された後、軍用ヘリでバジェグランデにあるこの病院に運ばれた。
ゲバラの遺体を洗ったことで有名なのがこの洗濯台だ。
ここで彼の死体が報道陣に晒され、その後腕を切断されて洗われた。
偉大な人なんだから、もうちょっといい場所はなかったのか・・・。死んでいるにせよ、腰のあたりが盛り上がって辛そう。
宿に帰り、復習がてらゲバラの映画を見て寝る。
2日目
2016年4月14日 世界一周701日目
今日はいよいよイゲラ村と彼が囚われた現場に行く。
朝7時にドライバーが到着。途中の景色が綺麗で何度か車を止めてもらった。
先日までのポトシの荒野と違い、この辺りは緑が多い。まさに密林山岳地帯。
途中に小さな村があり、ここにもそれらしきモニュメントがあった。
またしばらく進むと、突然なんでもない道端に車が止まった。
ゲバラが捕らえられたチュロー谷
茂みからひょっこり出ていた道標には、ちゃんとチュローと書いてある。
どうやら、ここから彼が捕らえられたチュロー谷に向かって降りていくらしい。
雑草が生茂る中、道無き道を黙々と進むドライバー。特に人が歩いた形跡はない。
もしここで別のところに連れて行かれ彼に何かされたらと思うと不安はあるが、私はちゃっかり宿の人に彼の名刺を見せてきている。何かあれば、宿の人が動いてくれるだろう。
緩やかな下りの茂みはやがて急勾配の密森となった。
本当にこんなところなのかと疑いたくもなるが、こんなところだからこそ、ゲバラが長期間潜伏できたのだと納得せざる得ない。
雑草は時々鋭利なトゲを持つものがあり、かなり大変だった。時折自生しているミントの香りがしてきて癒される。ゲバラもこのミントを食べて飢えをしのいだのだろうか。
チュロー谷についたようだ。確かに隠れ家を作るにちょうど良さそう。
ここからさらに降りていくと、小川がでてきた。小川に沿ってさらに進むと突然目印が出てきた。
ここで彼は銃弾に屈し捕まってしまった。当時は食糧などの物資も途絶え途絶えになっていたようなので、彼も逃げる元気がなかったのだろうか。定かではない。
昔のブログには小屋があったようだが、今は取り壊されてしまったのか。コンクリートだけが残っている。
この谷からまた車に戻るのがかなりきつかった。私にとってではなく、このでっぷり太ったドライバーにとって。おかげで私は鼻歌混じりで無事に車に到着。
イゲラ村へ
次はゲバラが処刑されたイゲラ村へ移動。
バジェグランデ より、ゲバラ色が強い。
ゲバラはボリビア国民から自由を取り戻すために戦っていたのだが、政府から悪人だと言われていたためになかなか国民からの協力を得られなかった。キューバで革命を起こした人物なのだから、政府も戦々恐々だったのではないか。
ゲバラのやり方も悪かったのだろう。結局彼は救いたい人達に裏切られて捕らえられてしまった。
そんな背景を考えると、今や観光地として成り立つこの村のモニュメントが少し白々しく感じてしまう。それでも今、彼のおかげで生きていける人がいるとするなら、ゲバラは天国で喜んでいるのか。そうであって欲しい。
博物館
博物館に入ってみた。
ゲバラがボリビアで革命を起こそうと思ったのは、周りを5つの国に囲まれており、移動がしやすいため。それに彼の故郷であるアルゼンチンも隣だったからと書かれている。
ここでは移動したルートが日を追って説明されていた。
捕らえられた時の服。若干手が加えられ、その時の雰囲気を表現しているようだ。
世界中から寄せられたであろう手紙の数々。
彼の歴史が説明してある。
建物を出て改めて看板を見ると、ここが彼らが捕らえられていた牢屋だったそうだ。
近くには小学校があった。平和そのもの。
ショートムービーはこちらです↓
見学した感想
映画の影響もあるが、私はこの村に少しネガティブな印象があった。そして訪れてみても、残念ながらその印象はあまり変わらなかった。
唯一のお土産屋に行ってみたが、おばちゃんが買えと進めてくるものは、ゲバラが横たわった洗濯台の写真や、彼が処刑されて死んだところがデザインされたTシャツ。どれも、ミュージアムにあった写真だった。
この写真、お土産に必要?
確かに、ここでしか買えないという意味ではとても貴重かもしれない。でも、死んでもなお、見せ物にされる彼が私はかわいそうだった。なぜ、いつものハンサムな彼をデザインしないのか。胸が詰まる思いがした。
その頃は中南米やアフリカにおいて沢山の国が欧米諸国の植民地や元植民地として搾取されていた。ゲバラは、まるで彼らを解放することがライフワークのように戦い続けていた。
しかし、人の幸せとはなんだろう。きっと彼らは搾取されていることにも気がつかず、毎日畑を耕し、鉱山を掘っていた。外の世界を知っているゲバラだからこそ、彼らが不便で不幸だと感じたのではないか。もしかしたら、彼らなりに、幸せに暮らしていたのではないだろうか。
農民からしてみると平等とか自由という意味も知らぬまま、ゲリラに高額で食糧を売って儲けていた。すると今度は政府からゲリラを支持していると目をつけられた。自分たちが追われる立場になるくらいなら、自国の味方をするのは致し方なかったのではないか。
余計な事を知らないほうが、比べて一喜一憂することはない。その方が幸せと言えるかもしれない。
幸せってなんだろうを何度も問う旅となった。
インドの英雄ガンジーの話はこちら↓