この記事は2016年の旅のお話です
南米スケジュール
世界一周出発から640日経過し、いよいよミゾヨコはアメリカ大陸へ移動することにした。ざっくりと考えているスケジュールは以下の通り。
インドからアメリカに入国。中米を飛ばして南米のコロンビアに移動。3月に旅友達のHさんが日本からミゾヨコと合流する。1ヶ月の予定で一緒にベネズエラを回る。彼女は何年か前に一年間南米を旅したことがあるので、ここで彼女からスペイン語や南米の旅の仕方を教えてもらう予定。
ベネズエラではロライマ山に行く。情勢がやや不安定であるが、Hさんもいるため何とかなるだろう。Hさんが帰国してからは徐々に南下して行き、エクアドル、ペルー、チリを陸路で移動し、夏にリオオリンピックを現地で応援するのが南米旅一番のハイライトになる予定。
できれば1年かけて南米も回りたかった。しかし秋にはアメリカに帰る用事もあるため、そんなに時間もない。割と駆け足の旅になりそうだ。
出発はいつも中華系
2016年2月15日 世界一周642日目
飛行機を選ぶ時、いつも選択肢に上がるのは地元に国際線が飛んでいる中華系と韓国系である。今回はインドのデリーからなので選択肢は多く感じるが、安さでふるいにかけると結局この二つのキャリアが残った。この頃東方航空は乗り換えで滞在時間が長くなるとホテルでの一泊を無料でつけてくれていた。就航始めたばかりの路線はサービスをよくして周知度を高める作戦か。私もその作戦に乗っかることにした。
デリーから広州の空港にたどりつくと、とりあえずアコモデーションカウンターを探す。しかし、すごくわかりにくい上に英語も通じにくい。中国人は、相手の言っている意味がわからないと漫画に出てきそうなくらい顔をひん曲げて「は?」って感じの迷惑顔をするのでくじけそうになる。
こういったお得なサービスは、待っていたら誰かが勝手に手続きしてくれるものではない。自分でこの情報を実現できるように然るべき場所を探しそこで主張して初めて得られるものだということはすでに学習すみだ。トリッキーな人の案内をどうにか間違えずに解釈してなんとかたどり着いた。
チケットを見せると係の女性が手際よく処理をし、あっという間に迎えのバスが到着しホテルに連れて行ってくれた。三つ星と書いてあったが豪華さは五つ星並み。
部屋もふかふかの絨毯と申し分のない広さのダブルベッド。いい気になってネットを始めたら、やはりここは中国だったと言うことを思い出した。LINEもFacebookも使えない。テレビもどうでもいいので、明日の長旅に備えて早めに寝ることにした。
アメリカに向け出発
2016年2月16日 世界一周643日目
豪華なホテルなだけに朝食も豪華なビュッフェだった。エコノミーの飛行機代だけでこのサービスが受けれるのは非常にありがたい。生野菜を避け、火の通ったものとフルーツを食べてリムジンバスに乗り込んだ。
颯爽と前進したバスが左折しかけたところで変な音とともに急ブレーキをかけた。人身事故でもあったのかとびっくりした。どうやら荷物入れが閉まっておらず、カーブでスーツケースが飛び出してしまったらしい。自分の荷物は反対側だったので被害に遭わずにすんだ。
チェックインを無事に済ませた。これから16時間の旅程を思うと憂鬱だ。ここから国際線の出る都市まで移動し、そこで出国手続きをして再出発する。飛行機乗り換えるたびにセキュリティーチェックの長蛇の列に並ぶ。それだけでも体力を消耗する。
無事中国を出国し、飛行機はサンフランシスコに向けて離陸した。映画を3本くらい見た後から、なんだか胃がムカムカする。おかしいな。長旅がこたえているのか、食欲もない。
アメリカが近づくにつれて、ワクワクとは裏腹にこれからの長旅に対する不安と大変さで気持ちがやや沈んできた。それに、定職についてないバックパッカーはアメリカで入国拒否されることがあると聞いたので、唐突に暗い気持ちになっていった。
いざ入国
無事に着陸し、太った黒人のオフィサーは私の不安をよそに笑顔で入国させてくれた。結果的に楽勝だった。
ところが、荷物が出てくると私の荷物は開けられていた。正確にはバックパックのカバーが外されチャックにかけていたTSAロックが非情にも壊されていた。おまけにポケットに突っ込んでいたサンダルも何処かにいっていた。
若干パニックになったが、他になくなったものはなさそう。しかしちゃんとTSAのロックをかけたにも関わらず鍵ごと壊されるとはどう言うことか。何のためTSAなのか。サンダルもなくなっているので問い合わせをした。
長旅で疲れていたのもあって最初から不機嫌だったけど、長く待たされた挙句、鍵もサンダルも保証されないのがわかって憤慨した。係りの男性も申し訳なさそうにしていたがどうすることもできない。
旅も始まってないのに早速サンダル買わないといけない事態になってしまったことに腹が立つが、仕方ないので部屋を出た。しばらくベンチで座っていると、後ろから係員に呼び戻された。
彼は私のボロボロのサンダルを持ってきた。忘れていたが、私のサンダルはインドで買った正真正銘の中国産のペラペラのサンダルだった。こんなサンダルのためにクレーマーよろしくあんなに怒ったのかと言わんばかりの軽蔑した眼差しで見つめられ、私はバツが悪くなった。こんな事ならあんなサンダルなんて出てこなければよかったのに。結局いたたまれなくなりそそくさと空港を後にすることになった。
サンノゼでの暮らし
空港の外でwi-fiを拾い真っ先に連絡をとったのは、インドのマラソン大会で友達になったSちゃん。アメリカ勤務だった男性と実際に会ったことのないまま遠距離恋愛を続け、去年結婚してこちらに引っ越してきたのだ。(彼女との出会いは最後のリンク参照)
夫婦ともにITエンジニアでサンノゼに暮らしている。アメリカに来たら絶対遊びに来てねと何度もメールをくれたのでありがたくその誘いを受けることにした。Sちゃんが予約してくれた乗合タクシーで自宅まで直行し、無事再会を果たした。
一帯はコンドミニアムの集合体で小さな街ができたような作り。新婚さんが住むにちょうどいい大きさのワンベッドルームの一階の中庭にプールがついているが、それだけではない。隣のブロックにはさらに大きなプールにジャグジー、スタジオ付きのジムに大きな公園まである。このコンドミニアムの住人ならどこの施設も使い放題なのだそうだ。
記憶が曖昧だがワンベッドルームは余裕で70平米くらいはあったと思う。賃貸料は毎月2500ドル。眼玉が飛び出そうなお値段だがこの界隈はインド人が多く住んでいて、初めてインドから出てきたSちゃんが寂しくないようにとここに決めたそうだ。周りにはグーグルを筆頭とした超有名企業の本社があり、彼らも含め、彼らの友達もそうした企業のエンジニアをしている人達ばかりだ。
そんな彼らに盛大に迎え入れてもらい、しばし彼らの家で生活することになった。もちろん国は変れど人種は同じなので、こないだまで毎日食べていたインド料理も変わらず出る。しかし、いまだにお腹が空かない。時差ボケかとも思ったけど何かが違う変な感じ。
それはチャイが出てきてから爆発した。本格的にお腹の調子がおかしいことに気がついたのだ。何かで引っ張られたようにお腹が痛む。便秘位気味のあれが今度は水っぽく変化する。激痛とは言わないにせよ、ずっとお腹がぐるぐる鳴っている。
何が原因か。ここにくるまで怪しい物は食べてないはず・・・。もしかして機内食か?それはないだろうな・・・・。
ん!?ああああ!!!!
そこで私は思い出した。ホテルの朝食でコップに入ったお水を飲んだことを・・・・・。
豪勢なビュッフェに気を取られて完全に油断していた。
ここでも洗礼をうける
そう言えば、中国のお水で以前にも当たっていた。それは皆既日食で訪れた上海近郊の観測スポットに行く途中のことだった。調子に乗って前日の夜街にくりだし、レディースナイトというクラブのイベントに行った。女性がカクテル無料のイベントで私は何杯もお酒をお代わりしては友達と飲んでいた。それが翌日の道中で破裂しいてしまい、皆既日食よりもトイレに通う1日になってしまった。あの時にもカクテルに溶けた氷が原因だったのに、今回も似たようなミスを起こしてしまった・・・。
それから後も腹の機嫌は全く治らず、何を食べても飲んでも下まで直通だった。こんな時日本にいれば絶食ののちにバナナやりんご、おかゆから食事を再開するのがセオリーだが、今この苦しい時でさえSちゃん夫妻はスパイスがタップリ入ったのインド料理を勧めてくる・・・・。ただでさえ食べ物は私の荒れた胃腸を刺激するのに、異国の香辛料は傷口に「塩」どころか「ハラペーニョ」ですよ。死ねと言われているのか。
それでも久々の再会で彼女が一生懸命もてなしてくれてるのがよくわかる。離乳食から香辛料デビューする国だから、荒れた胃腸と香辛料の因果関係は彼らにはないのだろう。私たちだって、腹が痛くても醤油は普通に使う。きっとそれと同じだと思った。
傷口にハラペーニョ作戦は手を緩めることなく続き、食べるとトイレに駆け込む状態が数日続いた。この洗礼のおかげで少しほっそりしたし、精神まで鍛えることができた気がする。
ロサンゼルス へ
2016年2月24日 世界一周651日目
長らくお世話になったSちゃん宅から移動してLAに移動する。これまでインドにいたせいでアメリカの物価が異常に高く感じていたが、少しずつ慣れてきた。今日は久々にグレイハントを使って移動するが、サンノゼから6時間の移動で24ドルという価格がこんなものかとやっと感じ始めた。
バスに乗ると、アメリカサイズの座席の大きさで少し運賃が安く感じた。充電器はあるし、フリーウェイからの景色も最高。さすがアメリカだ。まっすぐ伸びる道に並行するように低く連なる山、何処までもつづく放牧地帯、休憩所のガソリンスタンドに並ぶ身体に悪そうな色のお菓子の数々、バカでかいトイレのスペース。それなのにひざ下が大きく空いていて、ノックしなくても足元を見ればる先客がいるかどうかわかるトイレのドア。目に入るもの全てが私にアメリカにいることを実感させてくれる。
ダウンタウンの治安のよくない地帯を通り、ロサンゼルスのグレイハントの駅に着いた。10年以上前に来た時、ここで拳銃を突きつけられてお金を取られた日本人がいたのを思い出して緊張したが、無事にメトロを乗り継ぎハリウッドに到着。
久々に歩く中心地の街並みは昔とあまり変わらない。コダックシアター前のユースホステルにチェックインする。
ここは、私がバックパッカーとして初めてひとりで泊まった思い入れのあるホステルだ。911の直後からだと15年ほど前だろうか。当時は一泊20ドルくらいだったが、今回は37ドルもした。建物の古めかしさは昔と変わらないが、内装は一新されて名前も変わっていた。なぜか毎回泊まるたびに最上階の端の部屋のドミトリーに通されるが、そこが慣れているのでとても落ちつく。
ここへ初めてきた時の話
2001年に戻る。当時私は語学留学とスノーボードをするためカナダのバンクーバーに住んでいた。地元の友達のおばさんがロスに住んでいるというので、ロスで現地集合することになった。地元からロスに来た友達と4日ほど過ごす予定。しかし私はもう少しアメリカに残って冒険することにした。せっかくはるばるアメリカ本土まで来たとこだし、ひとり旅に挑戦してもっとアメリカを見てみたかったのだ。
友達を空港まで送り届けた後どこに行こうか迷っていると、到着ロビーでスイス人の男が話しかけてきた。これからどうするのかと聞かれたので、ハリウッドあたりに行ってみると答えたのを覚えている。その後私はバスを乗り継ぎハリウッドにたどり着いた。
コダックシアターの前まできて、安全を確認してから「地球の歩き方」をバッグから取り出し開いた。目の前にホステルがあることがわかった。2ブロックほど先にももう少し安いホステルがあったが、目の前のここに決めてチェックインした。
薄暗い階段を上がると2階が受付になっていた。安っぽいカウンターで受付を済ませて部屋に荷物を下ろすと、私は階段の踊り場にある大きなリビングを見に行った。ホステルはひと部屋に6つぐらいのベッドが置かれているドミトリーだ。昼間から寝ている人もいるため、他にくつろぐためのスペースやキッチンなどの共有スペースが充実している。
中央にはビリヤード台が置かれ、ソファーでくつろぐもの、ガイドブックを読んでいるもの、テレビを見ている人など、それぞれが好きなことをしていた。そこでアジア人らしき男性と遭遇したので恐る恐る話しかけてみた。
想定外の人との出会いと別れ?!
Yさんと言う男性は、この宿に住み込みで掃除などをしながらお土産屋でもバイトをしている。当時22歳だった私は、ツテもコネもない状態でアメリカにわたり、不法滞在のままアルバイトで食いつないでいる人がいるなんてことに驚いた。間違いなくこれまでの人生で関わったことがない人。ビザは?両親は?日本に帰れなくても平気なのか?色々聞きたいことは山積みだ。
ところが、Yさんと並んで座っていると、さっき空港で話しかけてきた男が私たちの横に近づいてきた。
え?これはこれで何という偶然!?
ビールでも飲むかという話になり世間話をしていたのだけど、あの頃はまだ全然英語が喋れなかったし、やっぱりYさんの話も非常に興味深い。結局私は日本人との話に夢中になりスイス人をほっとく感じになってしまった。
すると、しばらくしてスイス人の様子がおかしくなった。子どもがちょっかいを出すように肘でつついて来たり、私の視界の先に現れたり・・・・。最初はいちいち反応していたのだが、段々と面倒になってきた。そうなると一緒にビールを飲む気分でもなくなるので、廊下で会っても挨拶くらいしかしなくなる。
するとさらにエスカレートしてきて、ストーカーのように付きまとうようになった。そもそも、彼は空港から私をつけてきていたのではないか?流石に怖くなってきたところで、Yさんがマネージャーに言って彼を追い出してくれた。
何も追い出さなくても!?っとびっくりした。どうやら彼の英語力も低く買ったようだ。そのせいでコミュニケーションが取れなかったのかもしれないが、それにしても挙動がおかしすぎたらしい。時々薬物中毒者や銃を持った宿泊者もいるらしく、おかしいと感じたら追い出すこともあるのだとマネージャーが教えてくれた。さすが銃社会のアメリカ。なんだか凄いところに来てしまった。私はと言うと、逆恨みされてさらに嫌がらせを受けたらと思うと怖くなったので、しばらくひとりで出歩くのを控えることにした。
広がる世界観
そして、わざわざ外出しなくても全く困らないほどに、ここに泊まっている住人は面白かった。
このホステルは観光地の中心にありながら、私のような観光客だけではなく、全く観光とはかけ離れた目的で集まり共同生活を送っているものが多くいる宿なのだ。こうした長期滞在者はホステルの仕事を何時間かすることで毎日の宿代をタダにすることができるため、滞在費を抑えて生活する事ができるのだ。
日本人はYさん他にもうひとりいた。しかも英語が全く喋れないまま不法滞在していた。それでも10年間アメリカにとどまることができたら、グリーンカードがもらえるのだという。それまでの間に移民局に捕まったり、アメリカを離れると再入国はできなくなる。10年間も日本を離れるなんて、二十歳そこそこのミゾヨコからしたら人生の半分だ。どうしてそんなことになったのか。何故そこまでしてアメリカに住みたいのか。英語が全く喋れないのに住みにくくないのか。日本に残してきた両親はどうしているのか。いくらでも疑問が出てくる。胃腸に続き、今度は好奇心も爆発した。
日本から単身カナダに来た時もそれなりに衝撃はあった。人種差別も経験した。しかし、周りには同じ境遇の日本人が沢山いたし、こんなアウトローな人には会えなかった。自分では想像したことすらない、映画や本でしかみた事がないような暮らしの人が沢山いて面白かった。
他にも各国からいろんな人が来ていた。リカちゃん人形の上を行く超スタイルのいいオーストラリア人の女の子は、ここで映画のオーディションを受けているそうだ。ハンドボール級のおっぱいに青目の金髪。あのプレイボーイに出ているような金髪の白人。彼女はその容姿でアメリカン・ドリームを掴みにきたのだ。もしかしたらニコール・キッドマンも彼女のように安宿に泊まりながらオーディションを受けてチャンスを掴んだのだろうか。
ネパールからきたという青年は学生としてアメリカに来たがいつの間にか不法滞在となっているらしい。同じアジア人同士だからか、隙あらば私と二人っきりになろうとするのでめんどくさくなりすぐ彼に近づかなくなった。
青目金髪のイケメンフランス人は英語の勉強をするためにこの宿に泊まっているらしい。私の感覚だと語学学校しか選択肢になかったので、そんな手もあったのかと目から鱗だった。語学なんて所詮使わなければ覚えない。ここで旅人と話しているだけでもかなり勉強になるだろう。フランス人に特徴的な発音でのコミニュケーションはかなり難易度が高かったが、彫刻のミケランジェロのような顔だちにはかなり癒された。フランス人なのに、毎日インスタントラーメンばかり食べていたので不思議に思って聞いてみた。
「アメリカのパンはどれも完璧にまずい。だからパンを食べることをやめてヌードルにしているんだ」
なるほど。あの頃海外の日本食レストランも中国人がオーナーをしいてる店がほとんどで、日本食なのに日本人に人気がない店が多くあった。なにも高いお金を出してニセ日本料理を食べるくらいなら、中国人の作る中華を食べたほうが安くて美味しい。そう思っていたので彼の選択はすごく納得した。
マルセイユ宮殿の風が吹く爽やかな笑顔の彼にうっかり恋心を抱いてしまったミゾヨコ。先ほどの巨乳オージー(オーストラリア人)にそのことを言ったら、「実は私も彼のことが好きなの」と逆にカミングアウトされてしまい、結局その後二人は付き合うことになった。無念だが英語を勉強しにきたミケランジェロにとって、英語が母国語であんな可愛い女性に好意を寄せられたらこれほどラッキーなことはないだろう。お似合いの二人であった。
同じ部屋にはラスベガスの近郊から来たという黒人の女の子がいた。大学の休みを利用して遊びにきたらしい。一緒に街を歩いたのだけど、この時初めて年頃の女性でもブラジャーをつける習慣がない人がいることを知り、さらには(おそらくおっぱいが揺れてい痛いから)どんなに急ぐシチュエーションでも走らないのだと言うことを知った。そこまでしてブラジャーをしないメリットは何なのか、彼女に聞けずじまいでその後もずっと気になっている。
他に彼女から教えてもらったのは、坊主頭のことを「スキンヘッド」ではなく「シェーブドヘアー」と呼ぶことだ。前者だとギャング的な意味合いがあるのだそうだ。知らずに使ってトラブルになる前でよかった。
ベニスビーチに日帰りで行った時は、夕暮れ間近だと言うのに迷子になってしまって焦った。ホームレスの存在も怖かったので、日本人を見つけた時には追いかけて行ってバス停の場所を聞いた。これまたロサンゼルスらしく、映像関係の学生をしていると言う女の子と、俳優をしていると言う黒人男性だった。日本名「ロスト・キッズ」と言う映画にちょい役で出ていたらしいのだが、たまたま私がそのDVDを持っていたことで意気投合し、後日ドラマの撮影を見せてもらった。そこで超イケメン俳優を紹介してもらったのだが、それがのちにバイオハザードの準主役になったエリックメビウスだった。拍手だけじゃなくハグもしてもらえばよかったと後で後悔した。
ひとり旅の原点
とにかく、初めてのひとり旅は私にとってかなり刺激的なものだった。それまで旅行といえばグアムやハワイ、韓国のツアー旅行しかしていなかった。それがホステルに泊まり出会う人たちは多様な生き方をしており、今までは絶対に会う事ができない人ばかりだった。田舎から出てきた20代前半の私には、これらの人と話し生活を共にするだけでも異国の物凄くディープな場所にいるような気がして楽しかったのだ。
私はすっかりひとり旅の虜になった。アメリカと言う大国にかぶれ、生活してみたくもなった。日本に帰ってからはバイトに明け暮れ暇を見つけては旅をした。ひとり気ままに行きたい場所を巡り、色んな人や場所に影響を受けながら価値観を変えて現在のミゾヨコが出来上がっていったのだ。
そう言う意味で、ここはミゾヨコの旅の原点であり、ミゾヨコのアナザースカイなのだ。あれから20年が経った。そしてこれからも人生という旅は続く。私はこの時のドキドキを忘れず、幾つになっても人から刺激を与えてもらえる感受性を持ち続けていたい。
Sちゃんとの出会いは↓
インド人の恋愛事情↓